第1話 「別れ」
(作・かめ)
私は交差点に立ち、信号が青に変わるのを待っていた。
ちょっと前に地下鉄が到着したようで、道路の向こう側にある地下鉄駅の入り口がたくさんの人を吐き出している。すっきりと晴れあがった日曜の昼間。歩く人たちは半そでと長袖が半々くらいだった。
私は長袖のブラウスを着ていたし、ちょっと走ったために少し汗をかいていた。けれど暑すぎるという感覚はなく、全身に降り注ぐような日差しが心地よかった。普段ならどこかピクニックにでも行きたくなるような、そんな陽気。
しかし、そんな心地よい陽気にも関わらず、私の心は沈んでいた。いや、沈んでいるというよりは、思考が麻痺して何も感じていないような、そんな感覚だった。
私は、ただ、ぼんやりと信号を眺めていた。
私は、ついさっき彼と別れてきたところだった。
私はケンジを、彼の家の近くにある喫茶店に呼び出した。別れ話を切り出すために。
その場所を選んだのは、周りに人が居る場所の方が感情的にならないと思ったからだ。その方がきれいに、あっさり別れられる。
彼がではなく、私が自分自身の感情を抑えるために。
「私たち・・・別れましょう」
私がそう言うと、彼は少し驚いた顔をした。
でも、彼もそろそろ言われのではないかと予想していたのかもしれない。本当に少ししか驚いた顔をしなかったので、それが悲しかった。
「別れるって、どうして急に」
「このあいだ、あなたが女の人と歩いてるとこ見た。」
本当に急なことだと思うなら、もう少し驚いた顔をしたらいいのに。
「このあいだって・・?」
「このあいだの水曜日。バイトがあるって言ってた日。」
「・・・ああ。・・あれは友だちだよ。バイト仲間。」
少し間を置いてから彼はそう言った。思い出すようなふりをしていたのだろうけど、私には言い訳を考えているようにしか見えなかった。
「手、つないでた。」
「・・・見間違いじゃないかな」
「それから、二人でラブホに入ってった。」
少しの沈黙が訪れた。
彼は、私の言葉にどう返して良いのか考えているようだった。コーヒーを一口飲み、十分な間を置いてから彼は言った。
「・・ラブホに入るまで、つけてきたの?」
考えた末に出てきたのが、そんな責めるような言葉なのか。私はむっとして言い返した。
「気になるじゃない。彼氏が別の女と歩いてたら。つけて当然だと思う。」
「・・まあ、それもそうだね。」
彼は納得したように言った。そんな彼を見ていると怒りが込み上げてきた。彼は、ケンジはいつも冷静で、人をバカにしているんじゃないかってくらい能天気だ。それが彼の面白くて良いところでもある。私が何かささいなことで怒った時、彼のそんな態度を見ると怒る気が失せてしまい、すぐに仲直りできた。・・・けど、今は腹が立つだけだ。こういう時くらい、別れる時くらい真剣に話してもいいじゃないか。
「・・でも、ラブホに入ったっていうのは、誤解なんだ。」
何が誤解だって言うんだ。ふざけるんじゃない。私はそういう目で彼を睨んだ。彼にはそれが伝わったみたいだったが、さらに言い訳を重ねてきた。
「ほんとに、誤解なんだよ。あれはラブホじゃなくて・・ゲーセンなんだ。」
「・・・は?」
「ラブホっぽいゲーセン。中でずっとゲームしてたんだ。」
「・・・バカじゃないの」
なんだその言い訳は。こんなときに笑わせようとしているのか?
ラブホみたいなゲーセン、そんなのあるわけない。誰が喜んでラブホみたいな所でゲームするんだ。・・・ゲーセンっぽいラブホならまだわからなくもない。個室にちょっとしたゲームを置いている所はけっこうあるから、ゲームの種類を増やしてそれを売りにしているラブホもあるかもしれない。楽しいだろうし、入りやすいかもしれない。中に面白いゲームがあるからちょっと休んでいこうよ、とか男が言って、えー楽しそうー、なんて女の子が演技して・・・。
私はそんなどうでもいいことを考えている自分が、ばかばかしくなった。大きく息を吐いて、もう一度、私は彼に別れを告げた。
「とにかく私、あなたのそういう所、もううんざりなの。別れましょう。」
私はそう言いきって、彼が何か言う前に席を立った。
喫茶店のドアを出てから小走りで走った。そして曲がり角の手前で、私は後ろを振り返った。振り返った瞬間、しまったと思った。どうして振り返ってしまったんだろう。私は自分を責めた。まさか私は、彼に追いかけてきてもらいたいのか。あんな彼に・・・。
けれど彼が、店から出てくる様子は無かった。
信号が青に変わった。
私はまた、後ろを振り返ってしまった。やはり彼が追いかけてくる様子はなかった。私は、浮気が発覚する前から彼と別れる事を考えていた。マイペースで、いい加減で、能天気で、はっきりしない。そんな彼にはもう愛想をつかしていた。浮気が発覚したことは、ただ別れるきっかけでしかない。
私は横断歩道を渡り、地下鉄駅の階段を降りていった。まぶしいくらいの太陽から逃れて地下の涼しい場所に入ったことで、なんだか肩の力が抜けた気がした。
この駅から私の家の最寄駅までは240円。切符を買おうと財布を開けたとき、不意に目の前がぼやけて、手の甲に雨の雫が落ちた。けれど、今日は天気が良いし、そこは地下なので、雨が降り出すはずはなかった。頬に生温かい雫がつたっているのを感じた。
・・・どうして私は泣いているのだろう。
自分が泣いていることを認識すると、急に感情の波が押し寄せてきた。肩のあたりにのっていた太陽の光から解放されたために、あるいは切符を買おうとしたために、停止していた思考が急に動き出したのだろうか。
彼に会いに何度もこの駅まで来た。無意識のうちに切符代が頭に浮かんでくるほど、何度もこの駅まで来た。けれど、ひょっとしたらもう来ることは無いかもしれない。
そう思うと涙が溢れ出してきて止まらなくなり、私はその場に座り込んでしまった。
・・今でもこんなに彼のことを好きだったなんて、思わなかった。もう、すっかり冷めていると思っていたのに・・・。
切符売り場の隅っこで嗚咽を漏らしながら泣きじゃくっている私を、人々は横目で見て通り過ぎていった。
その時、カバンの中で携帯電話が鳴りだした。
つづく