第2話 「そして始まり」
(作・はかせ)
楽しげな着信音が地下鉄のコンコースに鳴り響いた。
濁った意識の片隅で、それが電話の着信音であることをかろうじて認識する。
しかし、私はその電話にでることはできなかった。
しばらく鳴り続けたのち、私の携帯電話は諦めたようにその演奏をやめた。再びコンコースは表情を消し、泣いている私をただ見つめていた。
・・・ああ、体が重い。
子供の頃からすっきり目が覚めることと、起き抜けでもすぐ体が動くことが自慢だったのに・・・。私は体に絡み付いた毛布をひっぱり上げると、顔を覆い、ぎゅっと目をつぶった。泣きつかれ、腫れた目が少し痛かった。
昨夜はなかなか眠つけなかった。だからといって、なにかを考えていたわけではない。すべてが真っ白なジグソーパズルを前にしたときのように、どこから考え初めてよいのかすら検討がつかなかった。
ゆっくりと目をあけると、薄暗い天井を眺めながら昨日の出来事を整理しはじめた。冷静に。冷静に。
彼に別れを告げたこと、それに対する彼の反応、そんな彼をまだ好きだと気づいたこと、しかし、もう後戻りはできないこと。
・・・そして自分がどうしたいかもわからないこと。
ベッドから重い体をやっとのことでもたげ、部屋を見渡す。昨日の惨劇を思い出させるように洋服が脱ぎ散らかっていた。そのなかに無造作に投げ捨てられている携帯電話が目にはいった。
携帯電話には着信が1件とメールが1通届いていた。メールの文面は「すてきな出会いが・・・」と偽物のような言葉で埋め尽くされたものであった。深い溜め息をつき、気を取り直して着信を確認すると、それは『タカちゃん』からであった。
『タカちゃん』は母方の親戚で、私にしてみれば「はとこ」にあたる。現在は大学で遺伝子関係の研究をしており、年齢は私より2つ上。年齢が近く、家も近所であった関係で幼い頃からよく一緒に遊んでおり、私にとってはやさしいお兄ちゃん的存在であると同時に、イヤなことや悲しいことがあったときの駆け込み寺でもあった。なにか特別なアドバイスをしてくれるわけではない。ただ聴いていてくれるだけで何故かとても気分が楽になるのである。
少しためらったが、タカちゃんに電話することにした。実際少しでも人と話して楽になりたかったし、タカちゃんは適任でもあった。
「もしもし。」
昔から聞き慣れた落ち着く声が電話の向こうから聞こえ、自分の心が少し和むのがわかった。
「もしもし、ひさしぶり。昨日は電話出られなくてごめんなさい。」
「いや、それはいいんだけど・・・どうした?なんか声元気ないよ。」
「うん・・・。ちょっとね。」
つい言葉を濁してしまった。「別れた」という言葉を発することに躊躇を覚えた。
「・・・昨日、彼とね・・・。」
一瞬の沈黙が訪れた。
そして、彼は「・・・そっか。」とだけ続けた。
その後、再び沈黙が訪れた。しかし、それはどこか柔らかな空気に包まれた静かな時間であった。
柔らかな空気が薄れ行くのを待って、彼が話題を変えた。
「あのさ、昨日電話したのは、俺の手もとに今週末のクラシックコンサートのチケットが2枚あるんだけど、・・・どうかな、と思って。・・・まあ、無理にとは言わないけど。」
「実は友達がチェロ奏者として出演していて、なかば無理矢理チケット買わされたんだよね。」少し冗談っぽくタカちゃんは続けた。
私は二つ返事でその誘いを承諾した。
今週末にはタカちゃんに話せるくらいには立ち直っているだろうと思った。そして、自分がどうしたらよいかという問いの答えを教えてもらえるような気もした。
ありがとうと伝えて電話をきった。
カーテンの隙間からは薄日が部屋に射しこんでいた。
土曜日のコンサートホール前広場は開演1時間前に関わらず、すでに多くの人々が待っており、これから始まるコンサートに対する高揚感に満ちている。
広場の時計が待ち合わせ時間の5分前をさしたとき、タカちゃんが駅の方から走ってやってきた。
ひさしぶりと軽く挨拶をすませ、二人でコンサートホールのなかへと入った。
演奏が始まるまでの間、タカちゃんと私は、今日の公演の曲目、最近見た映画の話、親戚の話などいわゆる「普通の会話」をした。彼は無理に聞いてこなかったし、私も無理してしゃべるつもりはなかった。
ステージの方に目をやると、演奏者がすでにスタンバイしていた。
「ほらあそこ、耕平。高校時代の同級生なんだ。」
タカちゃんが小声で言った。
私たちの席からは顔まではよく見えなかったが、チェロを構えた凛とした姿が印象的であった。
整然と並んで動かない演奏者の前を指揮者がゆったりとした歩調で通り過ぎ、指揮台の横で足を止めた。一礼し、指揮台へ上がり、再び会場に向かい一礼をした。そして踵を返し指揮棒をさっと振り上げると、会場はピンと張った空気に包まれた。
指揮棒が振り下ろされるとともに、このときを静かに待っていた楽器たちは沈黙を破り、美しい旋律を奏で始めた。
コンサートはとてもすばらしかった。普段そんなにクラシックを聴く方ではないが素直に感動を覚えた。
コンサート終了後、タカちゃんは私を連れ立って、楽屋に向かった。
おつかれー、なかなかいい出来だったんじゃない。
お客さん、結構入っていたね。
楽屋には演奏が無事終えた奏者の嬉々とした声があちらこちらから聞こえてきた。
私とタカちゃんが入口でなかを見渡していると、奥の方で、仲間と労をねぎらい合っていた一人の男性が、こちらに気づき近づいてきた。
「おう!やっぱり来てくれたんだ。」
少し人懐っこく、しかし芯の通った声で、近づいてきた男性はタカちゃんに声をかけた。
「無理矢理売りつけておいてよく言うよ。」
タカちゃんも少し冗談めかして、それに応対する。
「彼女?」
『耕平』は私のほうをちらりとみ、少し声を細めてタカちゃんに尋ねた。
「あ、いや違うんだ。はとこの矢野紗弥香。」
「はとこ?なんだ彼女じゃないのかよ。」
『耕平』は本当に残念そうな顔をした後、ちょっと「しまった」という顔をして私の方を向いた。
「俺、早瀬耕平と言います。よろしく。」
「・・はい。・・・今日の演奏、とって・・・。」と続けようとしたとき、「おっと、ごめん、後片付けしなきゃ。じゃ、またね。」とだけ言い、タカちゃんにも目配せし、楽屋の奥の方に走っていってしまった。
「せわしいやつ。」
タカちゃんは、いつものことだよ、というように苦笑して言った。
コンサートホールをあとにした後、デパートの最上階にあるイタリアンレストランで食事をすませ、近くの喫茶店にむかった。喫茶店のなかは心地よいあたたかさで、まだ少し寒い夜の外気から解放されほっとする。明日も休みということもあって、この時間でも喫茶店は若い人たちでにぎわっていた。
私はココアを、タカちゃんはコーヒーを注文し、席に着いた。
私は一度カップに口をつけた後、意を決し、ゆっくりと話し始めた。タカちゃんの相づちに促されるように、次々と先日の「出来事」が「ことば」に変わっていった。自分の口から出るその「ことば」は再び感情の波となって自分に返ってきた。そして私の満水に達していた感情のダムは欠壊した。まだ自分でも未整理な感情も片言ながらどんどん口をついて出た。しまいにはまた泣き出していた。
タカちゃんは終止なにも言わず、私の話を聞いてくれていた。
最終の地下鉄の時間が迫ってきたため、喫茶店をあとにした。
ところどころビルのネオンが消えはじめており、今日の終わりをつげている。私たちの前を最終の地下鉄に乗るであろうサラリーマンの集団が同じ方向にむかって歩いている。
私たちは話す言葉を使い切ったかのように、お互い何も言わず、ただ並んで歩いた。
古い雑居ビルの角を曲がり、殺風景に蛍光灯で照らされた地下鉄の駅が見えた。
私はありがとうと伝え、地下鉄の入口の階段を降りようとした。
そのとき思いがけない言葉が耳に入ってきた。
「これから、・・・俺の家にこないか。」
つづく