第3話 「邂逅」
(作・とみー)
「次は、こっちのティンパニをお願いします」
「はーい」
今日は、市内にある大きなホールでクラシックのコンサートが行われ、俺は、そこに楽器運びのアルバイトとして来ていた。本当は、友人が行くはずだったのだが、急に体調を崩してしまったため、吹奏楽をやっていた経験があり、楽器の扱いには慣れている俺に、代わりをお願いしてきたのだ。週末だというのに何も予定が無かった俺は、割の良い仕事と聞いて、二つ返事でO.K.した。
それは、ティンパニを運び終え、次の楽器に取りかかろうと搬入口から建物内に入った時だった。
楽屋の入り口に一組の男女が立っていた。演奏を終えたばかりで、興奮覚めやらぬ面持ちの団員と、親しげに会話をする男。隣で静かに佇んでいる女。
その女の横顔には、見覚えがあった。
紗弥香だった。
「私たち…別れましょう」
近所の喫茶店でそう告げられたのは、つい先日のこと。
毎度のことだった。
別れ話を切り出すのは、いつも相手の方。能天気で、何を考えているのか良く解らない(らしい)性格に、愛想を尽かされてしまうのだ。
紗弥香に別れようと言われた時も、大して驚かなかった。まさか、浮気現場を目撃されているとは思わなかったが、遅かれ早かれこうなるであろうことは、予測できていた。だから、無理に紗弥香を引き止めるようなことはしなかった。ラブホではなくゲーセンだったという言い訳だって、本気で信じてくれると思ったわけでは全く無い。ラブホに入る前にゲーセンに寄ったことを思い出したので、テキトーなことを言ってみただけ。それが、余計に彼女を傷つけてしまったのかもしれないのだが。
そういうわけだから、紗弥香に対して何の未練も無かった。
別れには慣れている。また他の相手を探せばいいこと。
そう思っていた、はずだった。
けれど…
「…はい。…今日の演奏、とって…」
暫し呆然としていた俺は、紗弥香の声に気付き、とっさに通路の陰に隠れた。
何故だろう。別に隠れる必要など無いではないか。
紗弥香とはもう終わったのだ。何を意識することがあるのか。
自分でも、良く解らなかった。
夜風が冷たかった。昼間は汗ばむほどの陽気だったのに。
バイトが終わっても、家に帰る気がしなかった。
週末の夜。街は多くの人で賑わっていた。酔っぱらったサラリーマン、まだまだ飲み足りない様子の若者、仲良さそうに手をつないで歩いていく恋人たち。
俺はそんな喧噪の中を、当ても無く彷徨っていた。
体はすっかり冷えきってしまった。
どれぐらいの時間、俺は歩き続けていたのだろうか。気付けば、紗弥香との初めてのデートで待ち合わせをした駅まで来ていた。終電間際、改札口へと駆けていく沢山の人の姿が見受けられた。
俺は入口近くのベンチに座り、大きな駅舎をじっと見つめていた。
その駅の東口には西部百貨店、西口には東部百貨店がある。そんな場所で、俺たちは初めての待ち合わせをした。待ち合わせ場所には東口を指定した。時間は夕方5時。5時を10分過ぎたところで、紗弥香の携帯から俺の携帯に電話が入った。まだこの街に来て間も無い彼女は、東部百貨店のある西口にいたのだった。
もしかしたら勘違いするんじゃないかと考え、あえて百貨店のことは教えていなかったのだが、こうも見事に引っかかるとは思っていなかった。案内表示をきちんと見れば、すぐに判ることなのに。初めてのデートで、緊張していたのだろうか。結構可愛いところがあるんだな。わざと教えなかったって言ったら、やっぱり怒るかな。そんなことを考えながら、俺は急いで彼女のいる西口へと向かった。
俺の姿を見つけた紗弥香は、ひどく嬉しそうな、安心したような笑顔で、俺に駆け寄って来たのだった…。
あの時の紗弥香の笑顔が、はっきりと目に浮かんだ。こんなにも鮮明に思い出すなんて、驚きでいっぱいだった。
もう、忘れたはずなのに。
俺は、まだ紗弥香のことが好きなのか。
それとも、早くも新しい男を連れていた彼女を、妬んでいるだけなのか。
わからない、自分の気持ちが。
どうすればわかるのだろう。
俺はただ、途方に暮れるしかなかった。
突然、聞き慣れた電子音が鳴り響いた。俺の大好きな曲。携帯にメールが来たらしい。ポケットから取り出して確認すると、それはあの浮気相手からだった。
『今から会えない?』
返信することもなく、すぐさまそのメールを削除した。
彼女にも特定の彼氏がいた。俺たちはそのことを承知の上で、割り切った付き合いをしていた。
だが、もう会うことは無いだろう。
俺は、暫くの間自分の携帯を眺めていたが、意を決し、メモリから紗弥香の携帯番号を呼び出した。
とにかくもう一度会いたい。
会って話がしたい。
何を言えば良いのかなんてわからない。
けど、会いたい。
会わなければいけない。
俺は、携帯の発信ボタンを押した。
つづく